歯科医師紹介
院長 山岡薫の紹介
幼少時代
私の出身地は、秋田市から60km南下したにかほ市の「象潟(きさかた)町」です。私はこの町で生まれました。私は、18歳まで過ごしたこの町が、とても好きです。
西は、日本海に面しており、夏には海水浴場が多くの人で賑わいます。また、東には海岸から15kmに2000m級の霊峰「鳥海山」があり、自然に恵まれた町です。特徴的なのは、鳥海山の稜線が日本海まで伸びているので、湧き水が海底から湧き出ているところがあります。そこでは、ミネラルを多くふくんだ岩ガキが採れ、名物の一つとなっています。(私も大好物です!)象潟の海岸は、海水浴場のある砂浜、岩垣が取れる岩場、そして、漁港があります。小学校時代は、シュノーケルを付けて、魚を突いて過ごした覚えが あります。
家族構成ですが、父は会社員で、母は専業主婦&パート(時々内職してました)、私は弟と妹の3兄弟の長男です。決して、裕福な家庭とは言えませんでしたが、家族5人で大きな問題もなく過ごした記憶があります。父は、秋田市の下浜出身で、母は、象潟町の上郷地区の出身です。山岡家は、秋田市の下浜がルーツとなります。私の自宅は秋田市の新屋地区なので、秋田市に戻ってきた形になります。
私が幼少時代に一番気にしていた恥ずかしい思い出は、「おねしょ」です。小学校に入学してからも続いていたので、母親は本当に心配になって、病院に何度も連れて行かれた 記憶があります。いろんな都市伝説を信じて、おねしょがなくならないかとトライしていた覚えがあります。幼稚園のお泊まり保育(おそらく年長)では、夜、先生に起こしてもらって、トイレに行ったことをいまでも覚えているくらいです。スポ少の合宿でも、いつも気にしていましたが、同級生がおねしょした事件があって、そこからみんな同じなんだと安心して、大丈夫になったように思います。
父は、会社勤めでしたが、不思議だったのは、いつも帰りが早かったということです。残念ながら、どんな仕事だったのかいまだにわかりませんが、スポ少の練習にも顔を出していましたのを覚えています。いつでも、平日の夕方は家にいる父、休みの日は、野球やゴルフをしに出掛けに行っていたと思います。父は、会社で出世することをどこかで選択しないと決め、それを自分の信念にしていたように感じます。私には、人の下で働かなくていい仕事が何よりと言っていました。職場での何かしらの出来事があったのかもしれませんが、子供はずっと覚えているものですね。いつも晩酌をして、太っていた父は、子供ながらに体格も大きく怖いイメージでしたが、その父としての頑固な存在がやはり大きく感じていました。弟といつも喧嘩していた私は、その度に父に怒られ、叩かれることは日 常茶飯事でした。母も父から何かと怒鳴られて、その後愚痴をこぼす状況でしたので、教育上はあまりよくなかったのではないかと思います。私は、反面教師で、そうならないと心に誓いましたが、頑固なところはそのまま受け継がれたようです(笑)
小学校時代
小学校は、地元の象潟小学校に入学しました。1学年4クラスの比較的大きな小学校です。構内の中庭には、神社があり、境内で、サッカー野球や鬼ごっこをしていました。神社は「象潟神社」と呼ばれ、何のために構内にあるのか、全く分かりません。私は、1年生の頃から、友達と喧嘩していました。ひどい時には、朝から喧嘩です。授業開始前に上級生が自習の様子を見に来ますが、組み合っている私たちをみて、唖然としていました。2年生の時には、日本海中部地震があり、給食を食べながら避難したのを覚えています。 その頃の校舎は、ブロック校舎と呼ばれ、塀に使われるようなブロックを重ねて作られて いるような校舎でした。冬は寒く、夏は暑い感じです。大人になってから、あの地震で校 舎が崩れなくてよかったと感じました。地震がきっかけかは分かりませんが、6年間で新 校舎と新体育館に建て替えられました。新しい校舎で学べたことは、非常に思い出に残っています。
小学校時代は、とにかくスポ少の思い出ばかりです。3年生から始めた野球の部活動は、心身ともに私の礎となりました。当時の指導者は、とても怖くて、優しくて、人間味がありました。今では、体罰と呼ばれるようなこともありましたが、そこには愛がありました。喉が乾いても、水も飲んではいけないような時代でしたから(笑)。1年間で364日、夜遅くまで練習していました。学校の勉強はした覚えはありません。宿題を忘れて、担任の先生に叩かれた記憶があるくらいです。
スポ少はとにかく厳しい練習で、どうにかサボることばかり考えていたように思えます。小学生の私たちができる以上の質と量だったと今でも思います。腕立て、腹筋、背筋は、おそらく体操選手並の量、とにかく走り込みをして、吐くまで体力作りをします。冬季間も室内で「むかで」「うさぎ」「かめ」など特有な名前の体力作りをとことん行います。みんな坊主でしたから、頭から湯気が出ていました。その中でも、楽しみもあって、ボール3つのドッチボールや、バスケットゴールがゴールのサッカーなど、野球以外のスポーツもたくさんさせていただきました。おかげさまで、5年生の新人戦から6年生の各大会のほとんどで優勝し、6年生の時に、象潟小学校初の全国大会に出場する機会もいただきました。そこで、「やればできる」という自信を身につけさせていただきました。今でも、当時のチームメイトは、尊敬するべき人ばかりです。
大会も終わり、卒業が近づいてきたころ、小学校近くの町の集会所に、部員が全員集められることがありました。監督は、とてもよく本を読む方でした。本を読む大切さを知ったのは、その時です。(それでも、私が本を読み始めたのは30歳すぎてから)いつものお説教のように大切なお話をしてくれていたように思います。そして、最後に監督が、部員一人ひとりに「お前は、将来警官になれ!」などの将来のアドバイスをし始めました。「お前は、不良になりそうだから気を付けろよ!」など、まだ将来も考えていない私たち はキョトンとしていました。いよいよ、私の番になりました。ドキドキしながら、体育座りで、監督の口元に集中していました。そして、監督はこう言ったのです。「かおる。。。、お前は医者になれ。」その言葉で、医療を意識し始めたのは、間違いありません。
思春期時代
そして、地元の象潟中学校に入ります。私が1年生時代の象中は、魁新聞の一面を飾るほどの荒れた学校で、当時を知る学外の中学校の先生も、「あの時は、大変だったねぇ」といわれるくらいの状況だったようです。まるで、漫画やアニメの世界です(笑)。男子は学校でトイレに行くことができません。いわゆる不良が、たむろしているので、近づけないのです。暴走族が構内に入ってきたり、タバコ事件は日常茶飯事です。私は、小学校からの野球を続けていました。運動部は、先輩がいるので、あまり被害に合うこともなかったように思えます。中学の3年間は、3年生の担任でもあった野球部の監督には、とてもお世話になりました。先生は、若い頃の事故で利き手の右手が使えなくなってしまったようですが、左手で書く板書の字もきれい、部活でのノックも、キャッチャーにトスをあげてもらって、しっかり打ってくれます。自分だったら、どうだろうと考えると、それを乗り越えた先生は、尊敬しかありません。本荘高校に進学することも、勧めてくれたのは、先生でした。
中学でも野球をとことんやり抜いて、バーンアウトしてしまった私は、高校入学して、独断で野球を辞めました。父は、野球を続けて欲しかったのではないかと思います。高校は、由利本荘市の本荘高校に入学します。野球以外にも運動部も考えましたが、地学部という文化部に所属しました。理由は、文化部で唯一、年に1度の合宿があると言うことだけです。つまり、単なる帰宅部です。だからと言って、勉強を熱心にするわけではなく、学校帰りにゲームセンターに行くか、地元の家具屋のバイトを続けていました。休みの日 には、バイト代で買ったBOOWYの布袋モデルのギターで、部屋で1日弾いていました。 何の目標もなく、誰かにアドバイスも頂かないことで、やる気もない、高校生となってしまったのです。
その中で、はじめて働くことを覚えた家具屋でのバイトは、熱心に行いました。高校3年間、最後まで働き続けました。続けられたのは、今でも自信につながっています。当時は、婚礼家具など大きな家具も多くあって、それらを自宅に配達する力仕事です。時には、窓から搬入したり、家の中で組み立てることもありました。野球で鍛えた筋力でなん とかしようとしますが、いつも一緒に行動していた専務の力には及びません。とにかく家具を傷つけないように、必死に食らいついていきました。カラーボックスは何十個も作ったので、今でも大得意です(笑)。また、タウンページからお客様の住所を抜き出し、葉書を送る作業など、今で言うマーケティングにも関わらせていただきました。
高2の時、私が歯科医師を目指すとても大きな出来事が起こります。スポ少の監督に言われた「医者になれ」という言葉、父から言われた「人の下で働かない」ことなど、将来 どうするべきか考えていた頃です。しかし、高2の進路決定でも、数学が得意で、国語が苦手だったことくらいで、理系を選んだだけでした。その私が、高2の時に、初めてお付き合いした方がいました。その彼女の実家が歯科医院だったのです。それでも、すぐに歯科医師を目指す訳ではありません。ただ、どこかで医療に進むことを心に留めていたからこそ、その先の歯科医師という選択をすることを決断したのだと思います。
大学受験時代
3年生になり、歯科医師を目指すことを決意し、実家の経済面を考えると、国立大学しか選択肢はありませんでした。親も、なぜ歯学部を目指すことを応援してくれたのか深意は分かりません。自分の学力では、到底、国立大学歯学部は難しく感じました。それでも、始発電車で高校に行き、勉強をし続け、野球部時代の根性でやり抜きました。
受験においては、新潟大学歯学部1本に絞りました。推薦、前期、後期試験の3回のチャンスがありますが、すべてセンター試験の成績が反映されます。残念ながら、その年のセンター試験の結果が芳しくなく、合格は難しいと感じていました。はじめに、推薦入学(10名)を受験しました。センター試験の結果と小論文、そして面接があります。面接では、学生服を指摘されました。少し短い学ラン、少し細いズボン、今で言う残念な服装だったのです。。。前期試験(45名)は、受かる気配すら感じませんでした(笑)。最後 は、後期試験(5名)です。センター試験と面接です。合格者5名の狭き門、面接で印象付けなければ、受かる見込みはありません。しかし、無難な質問に、無難に答えるだ け。。。「あなたの読んだ本で、印象に残っているものはありますか?」「はい、『アルジャーノンに花束を』です。その理由は。。。」元BOOWYの氷室恭介がシングル『DEAR ALGERNON』を出していたので読んだくらいの本を答えただけです。最後に、ある教授が質問してくれました。「あなたの好きなアーティストはどなたですか?」私は すかさず「BOOWYです。」と答えました。そこから、最後まで、BOOWYの話です(笑)。「結局、BOOWYで終わってしまった。。。」2週間後、秋田から新潟まで、予備校の入学金を持って、合格発表を見に行きました。もちろん、合格する見込みもありません。校舎の玄関に貼られた一枚のA4小さな紙。5名だけですから、そのくらいの大きさです。遠くから、小さな白い紙に近づいていきます。「ん!?」肉眼で2.0の視力の私には、少し遠くからでもいろいろ見えます。「山岡って書いてる?」「うそ!?」近づいてもやはり自分の名前があります!何と!合格していたのです!!当時は、携帯もないので、写真も撮れず、まずは、近くの公衆電話を探します。しかし、動揺していて、新潟大学から新潟駅まで約3km歩いて探しました。ようやく見つけた公衆電話から実家に電話し、「合格したよ!」と伝えると親も受かると思っていなかっただけに、驚きです!そこから、予備校の入学金を大事に小脇に抱えて帰りました。
大学時代
新潟大学歯学部は、新潟県新潟市の中心部にあります。入学してからは、勉強についていくのに必死でした。いまでも、教養学部時代に単位を取れずに留年する夢を見るくらいです。学力で合格したわけではありませんから、必死についていかなくてはいけません。また、学費も同じです。実家も私の学費や生活費でてんてこ舞いです。その当時は、実家でも経済的にどうやって生活していたかわからないそうです。私は、バイトを重ね、奨学金をお借りしながら、学生時代を過ごします。車ももちろん持てません。なので、新潟の ことは、自転車で回れる中心部以外は、全然わかりません。そのなかで、歯科医師になるための授業で、唯一得意と言えるのは、実習でした。特別上手なわけではありませんが、手を動かすことは、好きでした。歯科医師は、知識と共に、技術が必須となります。やはり、勉強が得意でも、不器用であれば、治療はうまくいかない、もしくは、頭の中で想像した結果には結びつかなくなってしまいます。または、知識と技術があっても、患者さん とのコミュニケーションが取れなかったり、患者さんに来てもらうための経営の知識がな いなど様々です。私は、自分で思ったことが治療という形で再現できるだけで、私は少し自信を持つことができました。
部活動では、バスケットを始めました。もちろん素人ですから、うまくいきませんでしたが、チームメンバーと苦楽を共にした日々が最高でした。ただ、歯科大学だけで大会が行われるので、全国29大学、北海道から九州まで大会で移動する旅費が生活を圧迫します。また、軽音楽部に所属していました。高校から続けてきたギターでバンドを組んで楽しみました。休日もアパートでずっと弾き続けていました。音楽センスはありませんでしたが、これまた、練習やライブでのバンドメンバーとの関わりが楽しくて、最高でした。大学は6年間でしたが、とても充実していたように感じます。高校の同級生が、どんどん社会人になっていく中、少し焦りもありましたが、24歳まで学生として学ばせていただけたことは、親に感謝しかありません。少しでも早く自立できるように、卒業後は、すぐに地元の秋田に戻って、働きたいという思いが溢れてきました。
研修医時代
2000年の歯科医師国家試験は、はじめて合格率が70%を切るなど大変な年でした。大学卒業後は、秋田大学医学部附属病院歯科口腔外科に入局させていただきました。もちろん、職場は、医学部の附属病院です。歯科衛生士だけじゃなく、看護師、薬剤師あるいは 医師と一緒に仕事をし、多くの医療を学ばせていただきました。今から20年前の時代ですし、外科系ですから、基本的なスタイルは、ビシビシ体育会系です。仕事は体で覚えるのが当たり前で、マニュアルも存在しない、日々失敗しながら、先輩にアドバイスをいただいて、ビシビシしごかれて成長してきました。もちろん、今の私の原点になるたくさんのことを学べたことは、私にとっての宝ものですが、もっと効率よく学ぶこともできたと思いますし、何より日々のことで一杯いっぱいで、先々の将来が不安でたまりませんでした。毎日の生活は、アパートと病院の行ったり来たり、それも、朝は患者さんの起床時間前に採血をするので、6時前まで出社。帰りは、診療を終えてから、症例検討やデスクワークを行い、いつも間にやら日付が変わってから帰ります。当時のアパートの間取りも覚えていないほど、仕事づくしでした。休日も、入院患者さんの対応と学会参加でほとんどが終わりました。そんな生活を続けていました。
おかげさまで、研修医1年目にして、埋伏智歯抜歯(骨に埋まっている親知らずの抜歯)を毎日施術させていただき、外科処置が大好きで、得意となりました。今でも、埋伏抜歯を行っているのは、この時の経験があるからこそです。2年目には、医学部の麻酔科で6ヶ月の研修を受けさせていただきました。医学部の麻酔科の先生と二人で麻酔にあたります。このような恵まれた環境で、全身管理を学ばせていただいたことは、私の中で、とても大きく、今でもインプラントの手術で静脈内鎮静法を行えるのは、この期間の研修のおかげです。
研修期間を終え、3年目から他のマイナーサージェリーを担当させていただくことになりました。これらの外科処置が身についたのは、大学病院時代に多くの経験をさせていただいたことによります。いまでも、少し大がかりのインプラント治療を提供できることも、当時の経験のおかげです。また、口腔癌の手術では、再建といって、失った皮膚などを他の部位から採取した血管が付いた皮膚(皮弁)で補います。その際に、血管どうしをつなげる吻合を、マイクロスコープを見ながら、術者が行います。それをアシストさせて いただいた時に、私もマイクロスコープを使用した拡大処置をしてみたいと強く感じました。それが、20年経って、クローバーデンタルで行っているマイクロスコープの精密治療につながりました。
大学病院時代に最も心に残っているのは、患者さんとの関わりです。外来や診療所と違い、病院には入院患者さんがいます。症状があれば、いつでもその都度、対応します。「様子をみてください」という表面上の関わりだけの対応はできません。常に、親身にコミュニケーションを行い、患者さんの言葉や表情から深意を探り、対応することを経験しました。入院患者さんを血液検査だけではわからない現状を把握することは、クローバーデンタルで行っている、歯周病の検査だけでは、その方の本質の見極められないため、お話する時間を設けていることにつながっています。そのため、クローバーデンタルでは、コミュニケーションを重要とし、何度かカウンセリングを行っていきます。
大学病院での研修期間を終え、口腔外科という専門分野も身につけたのちに、5年間秋田市内で勤務医として勤めさせていただきました。勤務医時代には、念願だったマイクロスコープでの精密治療やオールオン4を含むインプラント治療を経験することができました。そして、満を辞して、クローバーデンタルを開院することになりました。
開院して10年
2010年7月5日、クローバーデンタルを開院することができました。おかげ様で10年 間、クローバーデンタルを継続できたことは、心から喜ばしいことです。初めは、残念ながら、初期投資費用が捻出できなかったため、必要最低限の準備で開業しました。ユニット(治療台)が2台、スタッフ2名(妻1名)で始まりました。患者さんを診る数も限りがありました。それでも、毎日診療できることが嬉しくて、充実していました。その後1台、そしてまた1台とユニットが増え、歯科医師が2名体制になると、スタッフ数も20名 ほどになりました。
初めの5年は、とにかく自分自身の成長に焦点を当てました。歯科医師として、研鑽するために、毎週のように東京にでかけ、セミナー、講演会に参加しました。おかげさまで、マイクロスコープを使った根管治療や即時荷重インプラントも身につけることができました。家族には迷惑もかけましたが、私の成長が医院の成長となるよう、休みも惜しんで、学び続けました。
しかし、5年目を迎える直前、6年目以降のすべきことが見えなくなってしまいました。開院前に思い描いた医院の状態まで、順調に進んだ結果、それ以上の成長を望まなく、あるいは目標設定できなくなってしまったのです。いや、それ以上の情報がなくなってしまったのです。セミナーに参加しても、行動に結びつかない日々が続きます。そこで、決意したことは、私の成長だけじゃなく、スタッフや医院全体の成長でした。ここで初めて、歯科医院の経営の学びを始めることになります。
歯科医師は、8割が歯科医院を開院します。しかし、経営については、全くの素人です。私も、歯科医療だけを追求すれば、おのずと患者さんが集まってくるものだと信じていました。ところが、知名度も歴史もない当院のことは、思っている以上に誰も知らないのです。自分が自分に投資して学んでも、それを提供する相手がいなくては、本末転倒です。やはり医療従事者も経営を学ぶべきだと感じました。
そして、5年経過し、10年目を迎えることができました。毎日、多くの患者さんを診ることができることは、心から嬉しいことです。もちろん、私一人では、限界があります。 熊田先生をはじめ、多くのスタッフがいるからこそ成り立つことです。これも、前半5年 間の歯科医師としての研鑽、そして、後半5年間の経営者としての学びがあったからこそ、これから始まる10年以降のクローバーデンタルは、新たな治療として、「子どもの矯正 治療」「THPを始めとする家族単位の予防歯科」「歯周形成・再生療法」などを取り入れ ていきます。患者さんのために、スタッフのために、そして秋田のために、尽力していく所存です。今後ともよろしくお願いいたします。
秋田県にかほ市象潟町出身 | |
1994年3月 | 秋田県立本荘高等学校卒 |
1994年4月 | 新潟大学歯学部歯学科入学 |
2000年3月 | 新潟大学歯学部歯学科卒業 |
2000年4月 | 秋田大学医学部附属病院歯科口腔外科入局 |
2001年4月〜9月 | 同病院麻酔科研修 |
2002年4月〜9月 | 岩手県胆沢町国民健康保険まごころ病院歯科口腔外科勤務 (秋田大学関連病院) |
2005年3月 | 秋田大学医学部付属病院歯科口腔外科退職 |
2005年4月 | 秋田市内歯科医院勤務 |
2010年7月 | クローバーデンタル開院 |
所属学会
●日本口腔外科学会 ●日本口腔学会 ●日本口腔インプラント学会
●日本歯内療法学会 ●日本歯周病学会
スタディグループ
●一心会(秋田)理事 ●Happy Dentist(東京) ●REALIZE(東京)
●AFD未来歯会(東京)
2005年 | MAP imolant Institute Advanced Bone Grafting by Michael A.Pikos in Florida「インプラント骨増生アドバンスコース フロリダ」 |
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2006年 | ダイレクトボンディングハンズオンセミナー (Dr.高橋登) AHA BLS for Healthcare Provider Course「BLSプロバイダーコース」 丸橋全人歯科医療のすべて 初級コース(Dr.丸橋賢) 日常臨床に役立つ最新の歯周外科(Dr.野口俊英) GTR、Emdgain資格取得 |
2007年 | 丸橋全人歯科医療のすべて 中級3カ月コース(Dr.丸橋賢) 3mix-MP法セミナー(Dr.宅重豊彦) 若い歯科医師のためのOral Physician育成セミナー(Dr.熊谷崇) Oral Physicianチームミーティング 予防実践コース(NPO法人ウェルビーイング福岡) 歯周治療臨床実践3カ月コース(Prof.岡本浩) |
2008年 | Microscopic Dentistryセミナー(Dr.三橋純) Zimmerインプラントセミナー(Dr.椎貝達夫他) Happy Dentistセミナー3回コース(Dr.園延昌志、伊藤創平、澤田宏二) 歯周治療臨床実践3カ月アドバンスコース(Prof.岡本浩) Microscopic Dentistry Training Course(Dr.三橋純) REARIZE初級コース(Dr.澤田宏二) REARIZE中級コース(Dr.澤田宏二) ペリオドンタルマイクロサージェリー実習会(Dr.南昌宏ほか) |
2009年 | Prof.Tord Berglundh特別セミナー AHA BLS for Healthcare Provider Course「BLSプロバイダーコース」(更新) REARIZE上級コース(Dr.澤田宏二) 丸茂研修会 基礎12回コース Nobel Biocare Forum 2009 その他学会も含め多数参加。 |
2010年 | 丸茂研修会アドバンス(〜2020) All-on4コース(〜2020) |
2011年 | クリニカルコーディネーター実践セミナー(知恵子) オーラルフィジシャンセミナー |
2012年 | 丸茂研修会総義歯セミナー アンチエイジング学会 |
2013年 | 中部丸研 シロナシンガポールツアー 赤坂会、MIG、一水会ジョイントMTG |
2014年 | ORE学会 USCジャパンプログラム AII セレックプライベートセミナー 夫婦経営成功塾 |
2015年 | 経営実践塾ベーシックコース(〜2020) スーパースタッフ育成塾 アチーブメントスタンダードコース(〜2020) |
2016年 | 経営実践塾アドバンスコース(〜2020) デンタルビジネスアカデミー ドーソンアカデミー アチーブメントダイナミックコース |
2017年 | スーパードクター育成塾 プラネットセミナー(講師) SPP製作研修会 |
2018年 | 嵌植義歯研究所インプラント100時間コース MRCセミナー Total Health Programコース 矯正4日間コース(各務先生) アチーブメントアドバンスコース |
2019年 | 口育セミナー 5D歯周インプラントコース OREハワイ発表 3Dタイポドントコース |
2020年 | アチーブメントピークパフォーマンスコース 5Dエンド修復コース |
一般歯科診療(保険診療)
特殊歯科診療(自由診療)
お口の健康づくり
当院について